ネットで見つけた宿坊に着いたのは、もう太陽が沈みかけた頃だった。
思いのほか交通機関の乗り継ぎが大変で、初夏の長旅のせいか汗で一刻も
早く湯が欲しかった。
「お待ちしておりました」
靴を脱いではっか油を垂らした渓流の水で足を洗ってはどうか、と勧められたが
これが実に気持ちいい。浸している間にチェックインと荷物の搬入をしてくれるのも
煩わしくなくていい。
一緒に爽健美茶のような味の野草茶が茶托つきのグラスで出され、靴から解放された
足指の気持ち良さを楽しみながらいただく。
もう5度冷えていたらと思ったが、体のためにはこれぐらいの温度が丁度いいのだという。
それから足を綺麗に拭いて、ひんやりと冷気のたちこめる8畳の和室に通される。
障子を開けると黒いまでに鬱蒼と繁る山並が見おろせる部屋専用の露天風呂があり、
ちょっと離れたところにはサウナもあるという。
とりあえず酸性の湯ということで、肌がキュッと締まる感じだが、グリセリン豊富で
体内の毒素をどんどん出すと言われる炭入りナチュラルソープで全身をさっぱりと洗い流す。
貧乏性のせいか、元を取ろうとついつい長湯をしすぎてのぼせそうになってから、
慌てて上がると、冷蔵庫からさっき飲んだ野草茶を取り出してがぶ飲みした。
電話で湯上がりなのを伝えると、食事を運ぶとの返答。
小鉢に盛られたツルツルのざる蕎麦、蓮に山菜の天麩羅、それから豆腐やがんもどき、
かぼちゃと人参の煮つけに青菜のおひたし、ごま豆腐などの精進料理で体の中まで
浄化された気分になる。
スパイスは駄目でもわさびはいいらしく、甘さと爽やかさを伴う本物の香気を
楽しむだけでも蕎麦が楽しい。
こうしてその日はそのまま床に就く。
翌日も質素な精進料理が朝から続き、寺の参拝やサウナを満喫するが、
しかしこの宿のリピーターになる理由、その秘密は料理ではなく夕食後のマッサージにある。
「こんばんは、またいらっしゃられたか」
笑顔で挨拶されたお坊さんは35才、もうすっかり顔なじみである。
浴衣で寝そべると、ゴリゴリと強烈な整体が始まる。大学では柔道部でそういう
資格も持っているというが、これが実にコタえる。
バキバキ、ボキボキという骨の音がいかに骨盤が歪んでいたかを物語るが、
「ほらほら、横になってテレビを見るとこうなるんですよ」
「うつぶせで雑誌読むのが大好きのようじゃの」
と生活パターンが丸分かりになってちょっとだけ恥ずかしい。
一通り終わるといよいよ待ちに待ったメインの耳掃除となる。
最初に耳掃除の前に先端で耳ツボを刺激してくれるが、自分の場合は視神経が
かなり疲れていることを指摘された。
緊張をじっくりほぐして貰いながら、
「おや?」
「あの、何か」
「いやいや、耳たぶのホクロかと思ったら、毛穴のようじゃ、芯を抜きましょう」
クリクリと耳たぶを揉みほぐされると、温泉とマッサージで血行が良くなって毛穴が
弛んだせいか、ゴロゴロとヤツデの実のような異物感はあっけなく、プツッと音を
立てて弾けた。
懐紙に少しの黄色い膿に包まれた黄緑の芯を見せて貰ったが、跡はニョキニョキ絞って
ラベンダーオイルを塗って処理。
最初にまず、梺の村で職人が作っているという手作りのかなり細い竹耳掻きでカサカサと
粉耳なのを掘って貰いながら
「仕事を変えるおつもりか」
「ええ、どうしたもんなんですかね、先が見えなくてもう」
「それならこんな話がある。昔……」
法話も耳掻きの先も、普段届かなかった敏感な部分を適度に刺激し、垢を
そぎ落として綺麗にしてくれるのが気持ちいい。それを聞く耳をどんどん掘っていく。
手付きも口調もソフトなのに、削られた部分がボロボロと面白いように落ちていく心地よさ。
それから温泉をしみ込ませた綿棒と椿油でしっかりとケアしていく。
意識がもう薄れゆきかけたところで、
「右耳はこんなもんじゃろう」
と、頭をひっくり返される。
シャッシャッ、サカサカ、カリカリカリカリ、ザッザッザッザッ。
汗でふやけた左耳の内壁もどんどんかき出してくれるのがよく分かる。
ふと目をやれば、懐紙には驚く程の灰色ベースの黄色い破片が山のようだ。
「うわぁ、取れますね」
「そうじゃろうそうじゃろう。耳掻きのせいもあるじゃろうが、4食の精進料理や
薬膳で新陳代謝がものすごく活発になっておる。今まで体が耳垢として排出
したがっておったモノまで、亜鉛やマグネシウムをたっぷり取ることで吐き出したのじゃ」
なるほど体にいいわけだ。
「ん!」
「どうされました!?」
すると僧侶は嬉々として、無言で耳掻きの先を見せた。
左耳の底を塞いでいた、足の人さし指の爪程もある黒い塊がそこにはあった。
文句無しの大漁である。
「……つまり、農夫は結局農夫でおるのが一番ラクで良かった、という話じゃ」
民話をベースにした易しい法話が終わると、左耳の仕上げも終了。
とろけるような安堵がそこにあった。
「それではまた、休みになったら来られよ」
挨拶だけ済ませると、僧侶は満足そうに退室し、部屋の灯りを落とした。
行灯型の枕元のランプシェードが、懐紙に盛られた耳垢をゆらゆら照らす。
それを見届けると日向で干したふかふかの布団に包まれて、そのまま目を閉じる。
明日には遅い朝食後に帰らなければならないが、この調子だと海開きまでにまた来てしまいそうだ。
(おわり)