久し振りに従姉が部屋に来たので、耳掃除をすることになった。
「って、なんで耳掃除なのよ」
「いいからいいから。姉さん昔、俺によくやってくれただろ?」
「それはまあ、そうだったけど」
姉さん――俺は彼女をそう呼んでいた。
狭いワンルームの玄関をあがると、姉さんはぐるりと俺の部屋を見回した。
「案外、片付いてるのね」
思わせぶりな笑みを浮かべて言う。
「まあね」
「女の子呼んだりすることもあるの?」
「勿論、あるよ」
「ふうぅん……」
姉さんはなんだか中途半端な返事をよこす。
「えいっ」
と、いきなり姉さんが屈んだ。
俺のベッドの下を覗き込んでいる。
「さて、このへんにえっちな本が」
「探すなっ!」
ぽかっ!
「あいたっ!」
すかさず俺は、姉さんの後頭部を優しくひっぱたいてやった。
「暴力反対」
振り向いた彼女は、涙目のフリをしていた。
「こっちこそ、家捜し反対だ。まあいいから姉さん、服を脱ぎなさい」
「は?」
「コートを着たままでは出来んだろう」
まだ姉さんは、後頭部を擦っていた。思ったより痛そうに見えた。
加減したつもりだったんだけど。
「じゃあ、私、脱ぎます」
「いちいち宣言しなくてよろしい。……脱ぐの、手伝おうか?」
「あほ。ひとりでできるわっ」
「あほとはなんだ、あほとは。失敬な」
一旦、姉さんは立ち上がった。
ボタンをゆっくりと外し、白いダッフルが床に落ちる。
彼女は、赤いセーターを着ていた。
暖かそうなセーター。
その胸元には、シルバーのアクセが光っている。
「さて、と。それじゃあ綿棒どこ? 耳掻きのほうがよかったっけ? 貸してよ」
「やなこった」
俺は意地悪を言った。
「なんでよ。出来ないじゃないの」
「だってさ」
「きゃっ」
不意に姉さんの両腕を取って、俺は彼女を床に組み伏せた。
「な、なに……するのよ」
「膝枕」
そしておもむろに、姉さんの頭を、俺の足の付け根にぐいっっと押し付けた。
「いきなりなにを……や、やめなさいよっ」
「なにうろたえているんだ?」
姉さんは赤面していた。
「…………」
「おとなしくしろよ」
俺の正座した膝の上に、姉さんの頭がちょこんと乗った。
いや、無理矢理乗せたんだが……。
「耳掃除をすると言ったろ」
「わ、私がされるほうなの? もしかして」
「もしかしなくても、そうだよ」
「変なの」
「たまには、いいじゃないか」
確かに変かもしれないが。
そういう気分だった。
「はぁ……」
姉さんは観念したように、俺の膝の上でおとなしくなる。
顔を横に向け、横髪を避けてくれた。
「ほら、さっさとなさい」
「へーい」
向けられた耳たぶに、俺は手を伸ばした。
「んっ……くすぐったい」
姉さんがぴくりと反応する。
「えーと、暴れたりしないように。危険なので」
「ちゃんとできるの?」
「できるさ。上手いんだぞ俺は」
耳掻きをそっと扱う。
「お客さん、かゆいところあります?」
「ないけど。美容院かあんたは」
「うえっへっへ」
「やらしい笑い。オッサンみたい……あ、そこちょい右」
「OK。俺の腕はどうよ?」
「ん~……確かに言うだけのことはありそうね」
姉さんは気のないように答える。
しかし悪い気はしていないようだった。
「彼女にも、してやったりするんでしょ」
「ん?」
「耳掃除よ」
「ああ、たまにね」
「ふうぅん……」
またしても『ふうぅん』。けだるいような『ふうぅん』。
妙な相槌と思う。
「で、気持ちいい?」
俺はそっと、彼女の耳をこそぎながら訊く。
「うん、ちょっとだけ、気持ちいい……かも」
「そうか、ではもっとよくなるように、ゆるゆると出し入れしてやろうっ」
「黙れこのセクハラ野郎、セクハラ野郎」
「すいません」
「せっかくいい感じなんだから、くだらないこと言って興を削がないでよ」
「うーん、それにしても姉さん、うなじが色っぽいなあ」
「ほらまた。余計なことに気を取られてないで、作業に集中しなさい」
「へいへい」
渋々、手を動かす。
そういえば、一緒に風呂に入らなくなってから結構経つのだ。
こんなにも姉さんの肌は白かっただろうか。
こんなところにほくろがあっただろうか。
あんなに親しかったはずなのに、意外と知らないものだ。
「それにしてもさ」
「なぁに?」
姉さんは横顔を向けたまま、ゆっくり肩で息をしている。
「結構な『あめ耳』なんだなあ」
ねっとりとした水気の多い耳だった。
正直、耳掻き棒ではやりづらい。
「あれ? 知らなかったっけ? お父さん似でね、体質」
「ああ、叔父さんもそうだったっけ……遺伝か」
「そ」
時折ティッシュで掻き棒の先を拭いながら、俺は耳穴探検を続ける。
「あいたっ――」
姉さんが軽く身を竦めた。慌てて手を引っ込める。
「あ、ごめん。ちょっと棒が引っかかった」
「痛くしないでよ。気をつけて」
「わかってる」
「……続けて」
「おう」
再び耳に手をやる。
そっと掻き棒を差し入れようとした。
けれど、姉さんは何かを怖がるようにちらちらと、こちらに目を向けている。
「どうしたの?」
俺が訊くと、目を逸らした。
「耳掻きがさあ、やっぱりおっかなくて。硬いし」
少し不安げに、身を硬くしている姉さん。
「綿棒派だっけ?」
「綿棒派だよ。あめ耳なんだから」
「だよなあ」
「まあ、綿棒ないなら仕方が」
「あるよ」
「えっ!?」
「あるよ、綿棒」
俺が言うといきなり姉さんは身を翻して顔をこちらに向けた。
「むう」
膨れっ面だった。
「なによ! 綿棒あるなら最初から使ってよ」
「ははは、なに怒ってるんだよ」
姉さんの赤みの差した頬が、なんか可笑しい。
「なに笑ってるのよ、むうむううぅぅぅ」
さらに口を尖らす。可笑しい。
「もう、終了」
と、姉さんは俺の膝から降りてしまった。
「まだ途中だぞ」
「終了でいいよ。あんたの膝枕は硬いしでこぼこで肩が凝るわ」
「我侭だなあ。せっかく人が親切で――」
「やってくれとは頼んでない。さ、交代」
「え」
「交代だっつーの」
がばり。
半身を起こした姉さんは、俺の頭を鷲掴み、
「そしてそのままマウントポジションに」
「するかっ!」
ぽかっ!
「あいたたっ!」
殴られる俺。
即座に、さっきと立場逆転する。
押し倒された俺は、姉さんの膝枕の犠牲に……。
いや、犠牲じゃないな……。
ささやかなる幸せだ。
姉さんは、チェックのミニスカートをはいていた。
「うえっへっへ、おとなしくしろ」
彼女はわざとらしく、にやにや笑ってみせた。
「まるで変態さんのようだ」
「悪かったわね。あんたの下卑た笑いを真似ただけよ」
「どういたしまして」
しかし、うっかり俺もにやけてきてしまった。
「あのう、ふともも触ってもいいですか」
「却下」
作り笑いが素に戻る。
「そんな、即答しなくても」
「却下」
俺の襟足のあたりに、姉さんのスカートの裾が触れている。
膝枕はとても柔らかく、暖かだった。
「はい坊や、顔横向けて」
「坊や呼ばわりかよ」
姉さんはいつしかまた、微妙な膨れっ面を浮かべていた。
世話の妬ける子どもを扱うような顔。
「はい、おとなちくちまちょうね、ぼうや」
「……ちぇ……」
俺も膨れてそっぽを向いた。
姉さんの手が、俺の耳をそっと繕う。
「お客さん、かゆいところは」
「ないよ」
ぐりぐり、ぐりぐり。
丁寧なんだか、乱暴なんだか、緩急ありながらの耳掃除。
懐かしい感じ。
姉さんの手つきは、昔と変わりなかった。
「ふーっ……」
「おわっ! なにいきなり耳に息吹いてんだよ姉さん!」
「はははっ、びっくりしてる、びっくりしてる」
「ふざけないでくれ」
「へいへい」
本当は飛び上がるほど驚いた。
心臓が、飛び上がるほど。
顔色は変えずに。
いや、変わってたかも……。
「照れてんの?」
「違うよ、姉さんは子どもみたいな悪戯するなあと思っただけだ」
「だって顔赤いし」
「赤くないよ」
「赤いよ。このセーターくらい赤いよ」
「嘘つけ」
俺はくるりと頭を向けて、姉さんの顔を覗き込んだ。
「…………」
この、頭上の顔。
かつて見慣れたはずの、近頃は遠くなった顔。
膝枕から、見上げる彼女の顔……。
「膝枕から見上げる彼女の胸」
「あのなあ……黙れ」
「いや、意外とこれは迫力がありトップとアンダーの差は如何ほどなものか恐らくは弾力も」
「その淡々とした実況口調、おやめなさい」
「へい」
赤いセーターは、姉さんの胸元に優しいカーブを描いていた。
そこから下がるシルバーの、
「あ」
「なに……? さっさと横向きなさいよ」
「これさあ」
俺は胸の間に手を伸ばしてみた。
「なんだよ、触るなよぅ」
すぐにぺちっと手は払われるが、
「違うよ、首から下げてるアクセ」
そのシルバーのアクセサリが、本当は気になっていた。
「あ、これね。貰い物」
「もらいもの?」
「もらいもの……」
姉さんはアクセをそっと握った。
「あいつに、貰ったのか?」
少し間があってから、彼女は答える。
「ん……そう、だよ」
「ふううぅぅぅぅぅん」
俺はなんでもないように、相槌を打つ。
「なに、その『ふうぅん』ってのは」
「姉さんの真似。『ふううぅぅぅぅん』」
「似てねー」
「…………」
姉さんの彼氏のことはよく知らない。ちらと顔を見たことしかなかった。
続けて姉さんが口を開く。
「まあ、あいつとはもう別れて半年になるわけだけど」
「えっ!? そうだったの?」
それは知らなかった……。
「でも、それならどうして付けてるんだ、それ?」
別れた相手からの、贈り物。
俺が訊くと、姉さんはそっぽを向きながら答える。
窓の外を見ているようだった。
「貰ったものは思い出だからね、簡単に捨てられない」
「ふぅむ」
「それはそれ、って言ったら言葉は悪いかもしれないけど。相手が憎くなったりしたわけじゃないしさ」
「そっかあ……」
「外したほうがいいの?」
「いや、任せる――つーか、俺に訊くまでもないだろ?」
「ん、まあ……そう、だよね」
姉さんは軽く息を吐くと、俺の耳に視線を戻した。
「あ」
その時やっと、俺は気付いた。
「なに?」
「そのセーター」
「セーター?」
「思い出した。俺が選んだやつ」
……だった。そういえば。
「3年前のだけど、まだ着られた」
「そうかよかった、太ってなかったんだな姉さんっっ!」
「……刺すよ?」
姉さんの目がきらりと光った。
「あ、いやその、耳掻きを逆手に持って振り上げないでください。危険なので」
「承知の上」
おい、本気か。
俺は今度こそ飛び起きた。
「いや、マジで。洒落にならんので」
「覚悟っ」
はしっ。
「白刃取り」
冗談ってのはわかってる。
それでも姉さんの手を、しっかりと握って止めた。
「えー、やらせてよ。やらせてやらせて脳改造」
「えーじゃなくて――脳改造?」
「……この機会に頭の中も掃除してやろうと思ったんだけど」
「ね、姉さん……」
勘弁してください。
「まあ、そんなに言うならやめてあげよう」
「お、おう」
しばし、手を握り合ったまま睨み合う。
目つきは睨んでないけど。
むしろ、姉さんはたれ目だった。
「手、小さいな」
「離せ、ばか」
ぺちっ。
またしても手を払われる。
拗ねる姉さん。
おとなしく引き下がっておく俺……。
互いに、膝枕ポジションの定位置に戻った。
「セーター、似合うよな、姉さん」
「そうでしょ?」
「やっぱ、俺が選んだやつだからな」
「あら、私が着こなしてるからよ」
「俺が選んだからだ」
「元がいいからよ」
「むう。屁理屈ばかり言ってると婚期を逃すぞ」
「やかましい。……ほら、耳掃除はもういいの?」
ふと、チェックの裾が、ちょっとほつれているのが見えた。
「ミニスカートも似合うな、姉さん」
「やだ、なによいきなり。恥ずかしいじゃない」
「うーん、やっぱりふとももが気持ちいいなあっ!!」
思わずそこに頬擦りしてしまった。
「な!? なななな!」
「あ、今おなか鳴ったろ姉さん」
「ああっ、あほ! 死ね! 死ね! このヘンタイ!」
「や、やめろ! 耳を突き刺すな! 真似もするな! マジで危険――」
「くらえっ」
そして頭上からどかどかと。
降り注ぐ綿棒。
それから、降り注ぐ笑顔。
姉さんの笑顔。
それは目に眩しい。
ついでに天井のあかりも、眩しかった。
俺はまた見上げたくなった。
姉さんの、笑顔。
いつかまた、この部屋で。
こんな耳掃除を。
*
*
「ハァハァ……我が従姉ながら加減を知らんな」
「ふふふ、お互いさまよ」
*
*
おしまい