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耳の洞窟

雨の日の思い出

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雨の日の思い出

紫陽花薫る6月。
俺は鉛色の空から降り注ぐ白銀のシャワーをぼんやりと眺めていた。
朝からこの雨だとどうしても心身のテンションが下がるし、ちゃんと6時間
寝たであろうにベッドから起き出す気になれない。
日曜日で大学も休みだし、別にアクティヴに振る舞う義務も何もないんだが……。
大きな欠伸を一つすると、とりあえず気持ち悪い口の中だけでも何かしようかと
面倒ながら起き出して、ペパーミントのマウスウォッシュを口に含むとテレビの
通販で買った電動歯ブラシを口に突っ込んだ。
それからシェーバーで髭を剃った後に顔を洗い、パジャマを床に脱ぎ捨てると
再びベッドに戻って横になった。
雨脚が一層激しくなり、庭のムラサキツユクサそっくりの色の稲妻が部屋をカッと照らす。
怖がる人間は多いが、俺はむしろそういう天候が好きだ。
雨樋から景気良く排水溝に雨水がドッドッと流れ込むのも、アマガエルが合唱するのもだ。
まだ眠り足りないらしい。俺はそのまま目を閉じて、丁度こんな天気だった幼少期の頃の
ことを思い出した。
当時はまだ自宅にお婆ちゃんがいて、理由は忘れたがその日はどういう訳か、
専業主婦の母が留守にしていて、帰るまで俺は天気も手伝い、不安感をぶつけまくっていた。
しかしそんな俺のわがままぶりに、お婆ちゃんは嫌な顔一つせず、何かを思い付いたように
引き出しから耳掻きを取り出した。
「お婆ちゃん、なぁにそれ」
「ああ、気持ち良くなる魔法の道具さね。じっとしてな、これで掃除をしているとね、
時間がいつもの何倍も速くなるんだよ」
まだ幼稚園だったから、倍という概念ははっきりと分からなかったが、それでも
まあ、本気で母が本来より早く帰ってくることだけは分かったからそれに応じた。
お婆ちゃんの膝はすごく気持ちが良くて、雷雨の庭を網戸越しの借景にしながら
耳掃除が始まった。
みんなの初めての耳掃除体験談を聞くと、必ず痛い、怖かったというが、
不思議とそういうのはなかった。
そう、竹の耳掻きのはずなのに、お婆ちゃんの手に掛かればまるで消しゴムのように
当たりが柔らかいのだ。もっとも消しゴムなんか当時は使う機会なんかなかったが。
きっとそれは、愛情だったり、熟練のテクだったり理由は一つじゃないんだろうと思うが、
そういうのを全部ひっくるめてお婆ちゃんらしいと思った。
きっと、何でも話せる存在で、信頼感があったせいだろうと思う。
しっかり耳垢は取れていたはずだけど、それは柔らかいタオルで肌を擦るよりも
優しく、まさに指先でなぞられる程度の感覚しかなかったのだ。
気がつくと、もうすっかり熟睡してしまったらしく、母親の作る夕飯の匂いで
目が覚めたというのを思い出す。

「智幸、智幸どうしたの?」
気がつくと、布団の中にいた筈の俺は実家の縁側で、お婆ちゃんの膝枕の上に
頭を乗せていた。
「う、う?」
まだ頭がぼうっとしているのか。
いや、さっきちゃんと歯磨きをしたから口の中はさっぱりしてはいるが、すると何故
土の下にいるはずのお婆ちゃんが?
でもそんな疑問は何だか知らないがひどくナンセンスなことのように感じられた。
「夜更かししたのかい、目の下にクマ作って」
「ああ、うんちょっと徹夜でゲームしてて」
「駄目じゃないか、ちゃんと学校行かないと」
「土曜日だったから休みなんだよ」
お婆ちゃんの指先の延長と化した竹の耳掻きが奥まで入っていく。
そして外耳道をマッサージする感覚で柔らかい感触が耳垢を擦り取っていくのだ。
あの日のまま、時間を忘れる癒しのタッチで耳掃除が進む。
そのたびに内側からボロボロと焼いたパイ生地のようにかけらが取れていく。
「ほぉらこんなにためて。こまめに掃除しとらんかったろう」
「ああ、忙しかったからね」
「不精はいかんよぉ」
俺は今こうしているのが夢なんだと納得しつつ、鶯あんの饅頭を口に入れて、
久しぶりに再会できたお婆ちゃんに耳掻きの極意を聞くことにした。

「どうしたらこんなに気持ちよくなれるかな」
「そりゃあ、削るって感覚でおったらいかんよ。優しく撫でる感覚での、
汚れの奥底まで一気に剥がそうと思ったらいかん、時間かけてやらんと」
言われてみれば、たまにやってくれた母の耳掃除が痛かったのは、きっと
こそげ取ろうという意図があったせいだろうと思う。
それが慣れて、喉の奥が不思議といがいがするぐらい刺激があっても気持ち良く
感じられるようにはなったが、やはり祖母のテクには及ばない気がした。
それにはそんな訳があったのか。
「こういうものは時間を楽しむように。いくら早くてもそれが誰から誉められる訳でなし」
「言われればそうだけど」
「だから力は殆ど入れたらいかんのよ。綿棒でも無理になすりつけるんじゃなく、
綿の感触を楽しむ気持ちで。汚れは自然に絡め取られるから焦ったらいかんの」
「そうなんだ」

「奥の方、ちょっと取れないねぇ。ちょっと冷たいよ?」
そう言われて小瓶の口を耳に添えられた。
「っ!!」
幼い頃、これだけで泣いてしまった液体。
「これがこれからゆーっくり、全部溶かしてくれるからね」
「そりゃいいや」
耳の中で既に音をたてて、トローリと表面からハチミツのような液体に
ゆっくり変わっていくのが分かる。
目を閉じてそのイメージを楽しむ。
「ちょっと10分程待つ間にお婆ちゃんと話でもしようかね」
「うん」

それから色んな話になった。
高校はどこだったのか、どんなクラブに入って大学はどうなのか。
好きな女の子はできたのか、爺さんみたいに酒ばかり飲んでいないか。
ご先祖だからいつも見てるんじゃなかったのか、という気もしたが、
嬉しかったことや悲しかったことがこの際だからみんな話しておくまたとない
機会だと思って、思わず矢継ぎ早に話し続けた。
10分なんか本当にすぐで。
「ほーら、もうそろそろ真水のような液が、ゆーっくりふやかしてくれた頃かねぇ」
「えっ、もうなの?」
耳を覗き込んだお婆ちゃんは、
「ああ、もう中グズグズの熟柿(ずくし)のようだよ」
熟柿といえば、実家の庭では大きな柿が今でもあって、晩秋の縁側でこうして
耳垢がふやけるのが待ち切れず退屈している俺に、熟柿がボタッと落ちるのでも
見てろって言われたっけ。
そうしたら、両耳までに3つも落ちて。その落下音が今でも不思議と覚えている。
それでは勿体ないからと、母が熟柿を全部取って、種を抜いて冷凍庫でそのまま
シャーベットにしてしまって、それがとびきり旨かった。

綿棒を入れるとそれだけでゴボッとまるでプールに潜っていた時に誰かが他に
入ってくるような音がして、そこからパクッ、と再び鼓膜と外界の間にあった
水が抜けて、
「ほら、みてごらん」
「あっ、本当だ、すげぇなこれ」
綿棒は薄墨色のものがべったりくっついていて、まだまだあるという。
と、お婆ちゃんの綿棒がいつになく一瞬大胆に動いた。
次の瞬間、さっきの水が抜けた以上にすっきりした感覚に襲われた。
「どうしたの?」
「ほらこれ」
そこには小豆の粒程はあろうかというような塊が先に乗っていた。
黒褐色、と形容するのが一番適切だろうか。
あまりの大物に言葉がなかった。
両耳の掃除が終わって、お婆ちゃんは満足そうに立ち上がると、
「お盆にはまたきっと帰ってくるんだよ」
と笑ってから仏間に消えた。

はっ、とそこで目覚めた。
たった1時間にも満たない程度の内容だったのに、時計の針はもう16時を指していた。
また口の中が気持ち悪いし髭が少しざらつく。
俺はとりあえず、シャワーを浴びてもう一度身だしなみを整えると、商店街の
肉屋に旨いいつものコロッケを買いに自転車に跨がった。
雨はすっかり上がり、クリアブルーの空がさあっと広がっていた。
(終)
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